Monday, October 31, 2022

阿部定.昭和日本怪谈:“魔女”阿部定的感官世界

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- 阿部定



  阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定が年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。 阿部 定は、日本の芸妓、娼妓。阿部定事件の犯人として知られる。  


阿部定



 

定はその後近所で評判の 不良少女 になっていくが、本人の弁によれば「もう自分は 処女 でないと思うと、このようなことを隠してお嫁に行くのはいやだし、これを話してお嫁に行くにはなおいやだし、もうお嫁にいけないのだ、どうしようかしらと思いつめ、ヤケクソになってしまいました」。母は定をなだめようと優しい言葉をかけたり、物を買い与えたが、逆にそれが癪に障った。. 丁度その頃、阿部家は長男と次女の男女問題や家業継承問題でもめており、母は家庭内の揉め事を年頃の定に見せないように小遣いを渡して外に出すようになり、やがて定は現代の金額に換算すると10万円から60万円もの大金を家から持ち出して、 浅草 界隈を仲間を引き連れて遊びまわる不良娘となっていた。父は時折厳しく定を叱り付け、家から閉め出したり折檻をしている。後に 浅草 の女極道「小桜のお蝶」とも張り合うようになり地元神田にまで定の名は轟く。. この頃の定の暮らしは、昼近くに目を覚まし朝昼兼用の食事を女中に運ばせ、風呂を済ますと外出し、10人以上の不良少年に取り巻かれ、 凌雲閣 で映画を見て、映画が終わると 居酒屋 へ繰り出し、夜遅く帰宅する。他の男性と交際していたが、不良仲間とは肉体関係は持っていなかった。このような生活は1年ほど続いたが、定が16歳の時に、三女・千代の縁談が決まると、体面を保つのと家を追い出される形で女中奉公に出たが、屋敷の娘の着物や指輪を盗んだため警察の世話になり、1か月後に家に送り返された。父・重吉は非常に怒り、それから約1年間、定を自宅で監禁同様に過ごさせている。.

長男・新太郎が両親の金をありったけ持って蒸発すると、畳屋を店じまいすることになり、阿部家はその頃 埼玉県 入間郡 坂戸町(現在の 坂戸市 )に転居した。しかし、阿部家は都内に貸家を何件か持っていたため、生活に困ることはなかった。. その後の定は男と交際を繰り返し続け、見かねた父と兄は定が17歳の時に「そんなに男が好きなら芸妓になってしまえ」と長男・新太郎の前妻・ムメの妹の夫で 女衒 の秋葉正義に売ってしまう。秋葉はかつては彫刻家の 高村光雲 の弟子で、当時は彫り物家の肩書きも持っていた。定は秋葉に夜這いをかけられ、秋葉は4年ほど定のヒモとなっている。.

神奈川県 横浜市 住吉町(現在の横浜市 中区 住吉町)の芸妓屋「春新美濃(はじみの)」に 前借金 円で契約。源氏名「みやこ」として 芸者 の世界に脚を入れる。1年ほど春新美濃に在籍し、その後も横浜や長野で芸者として働いていたが、三味線が弾けるとはいえ特筆した座敷芸がない定は、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが嫌であったという。身売りの金は定の小遣いとなった。.

神戸 で2カ月ほどカフェの女給をしてから 大阪 に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。この頃、男性と毎日肉体関係を持たないと気がおかしくなりそうだと病院に相談しているが、医者は「難しい精神鍛錬の本や思想の本を読んだり、結婚をすればいいだろう」と答えた記録がある。. 一度は坂戸の実家に戻るが、大正楼からの追っ手が来たため大阪に逃亡。 年 (昭和8年)1月、大阪で母のカツが死亡したという 電報 を受け取る。翌 年 (昭和9年)正月、日本橋の袋物商の妾をしていた定の元に、父の重吉が重病だという知らせが届く。10日間つきっきりで看病するが、重吉は病死。最期の言葉は「まさかお前の世話になるとは思わなかった」であったとされる。.

事件から2日後の 年 (昭和11年)5月20日、定は逮捕された [3] 。当時横浜で畳店を経営していた兄・新太郎は「自殺でもしてくれればいい」と新聞にコメントしている(新太郎は定が受刑中に病死)。姉のトクは秋葉と共に何度も面会に来ている。. 定は事件後、石田が事件当時に身につけていた 褌 を腰に巻き、シャツにステテコと石田の血で汚れた腰巻を身につけて逃亡していた [6] 。石田の下着類はいくら探しても見つからないので警察も不思議に思っていたが、それらは拘置所( 市ヶ谷刑務所 )に入った定が身につけていた。拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎしている。予備調書は門外不出であったが、何者かの手によって外部に流出し、戻ってきた時は手垢まみれであった [ 要出典 ] 。. 留置から裁判でのやり取りは、定を担当した弁護士によってマスコミに話が流れ、当時の社会に衝撃を与えた。その後当時の弁護士を解任し、新たに 竹内金太郎 弁護士がついている(私選か公選かは不明)。年11月24日に行われた初公判は傍聴希望者が深夜から殺到し、傍聴券抽選時間は繰り上げられた [7] 。.

精神鑑定の結果では残忍性淫乱症( サディズム )と節片淫乱症( フェチズム )と結果が出た。 年 (昭和11年) 12月21日 、 東京地方裁判所 は定は懲役6年( 未決勾留 日を含む)の判決を出した。通常、受刑者は汽車で刑務所に移送されるが、有名人になっていた定をそのまま移送するには問題があった。 年 (昭和12年)1月16日、定は市谷刑務所で男装をした上で、幌型自動車で 栃木刑務支所 に送られている [8] 。. 受刑生活では ラジオ体操 の存在も知らず、最初は精神的に苦痛を受けるが、人の2倍はこなす模範囚となった。 一方、定の精神安定上の問題や他の受刑者への影響も考えて、収容先は全国の7カ所の 女子刑務所 を転々とさせる方針が採られた。栃木刑務所に移送された3か月後には、宮津刑務所へ再移送されている [9] 。 石田の一周忌を迎えると癇癪を起こすようになり、泣き喚いたり呼ばれても横になったまま、看守の頭にバケツの水をかけるなどの奇行を繰り返した。その後、 教誨師 の説得により徐々に平常心を取り戻すようになった。この頃、さまざまな思想本を読み、 日蓮宗 に帰依した。 服役していた間に、ファンレターや結婚の申し込みの手紙がおよそ1万通寄せられたという。.

その後7年ほどは刑事から与えられた「吉井昌子」という偽名を使い生活、勤務先の赤坂の料亭で知り合ったサラリーマン男性と 事実婚 し谷中のアパートで暮らしていたが、年(昭和20年)の 東京大空襲 で被災すると、 茨城県 結城郡 宗道村 (現在の茨城県 下妻市 )に疎開する。ここでは農業の手伝いをし、上記の偽名で配給を受けている。終戦後は 埼玉県 川口市 に居住。.

しかし、戦後の エログロナンセンス ブームで 年 (昭和22年)には「 お定本 」と呼ばれる カストリ本 が続々と出版されている。3月に『愛欲に泣きぬれる女』、6月に『お定色ざんげ』、8月に『阿部定行状記』が出版。中でも『お定色ざんげ』の作者、木村一郎と版元である石神出版の社長を石田と自身の名誉毀損に当たるとし、9月4日に定は秋葉と連名で東京地裁に訴訟を起こす [11] 。訴訟から数週間後に『お定色ざんげ』は発禁となっている。. この年には 織田作之助 が阿部定事件を基にした小説『妖婦』を出版。 坂口安吾 は文藝春秋社発行の雑誌『座談』12月号で定と対談している。彼ら 無頼派 の作家にとって、定は ファム・ファタール 的存在だった。 年 (昭和23年)3月には手記『阿部定手記』(新橋書房)を出版。これにより名誉毀損訴訟も収まっている。.

秋葉夫妻の元に下宿し、 年 (昭和24年)、秋葉の援助を受け6カ月ほど地方を巡業した。その後は京都で芸者をし、大阪の「 バー・ヒノデ 」のホステスや伊豆の旅館の仲居として働いていたが、 年 (昭和29年)夏、実業家の島田国一の紹介で、料亭「星菊水」社長・丸山忠男は定を客寄せパンダにしようと10万円の前金(現在の金額で万円ほど)を出しスカウトする [12] 。月給も他の仲居は円だったのを、定は1万円をもらっていた。当時の都電には下記のようなチラシが掲載された。. 星菊水では料理の他に、宴会の終盤に「お定でございます」と定が宴席に登場し、客をもてなすサービスがセットになっていた。働きぶりは真面目で、 年 (昭和33年)には東京料飲食同志組合から優良従業員として表彰されている。この頃は店のマネージャー兼女中頭であった。その後、上野の 国際通り に小さなバー「クィーン」を開店。しかし従業員に店の金を持ち逃げされて半年で店じまいする。.

また、「星菊水」「若竹」共に店の客からの評判は「江戸っ子らしく気風のいい優しい人」と評判が良かったが、事件には一切触れることはせず、仕事仲間にも当時のことを語ることはほとんどなかった。一方で、事件の当時を知っている警察関係者や司法関係者が店にやってきて金をせびったり身体を要求することもあり、定は用心深くなっていった。 年 (昭和45年)3月、定は若竹から忽然と姿を消す。店を手伝っていた女性が病気になり、一人で店を切り盛りしていたが彼女も体を壊し、世話をしてくれた年下の バイセクシャル の恋人に店の金を持ち逃げされ、店を閉じて借金をある程度清算したが、どうしても残りの金を工面できず、関西に行き自殺を考えていたが、様子がおかしいと気づいた芸者に説得され、東京に戻ってきたとされている。.

出所後の定を知る多くの人物が「読書好き」だったと語っている。しかし、実際には本が好きだったわけではなく、外出先で後ろ指を差されることを嫌ったためである。雑誌は『 婦人公論 』を好んだという。. 事件以後は石田が好んでいた 卵 と たばこ は一切口にしなかった。. この犯罪の詳細が公表されたときのデマでは、石田の陰茎が驚異的なサイズであると切り出した。しかし逮捕のあと、定に質問した警官はこれを否定した。「石田のモノはちょうど平均であった。私を性的に喜ばせたいというテクニックと奉仕的な愛撫をする石田が好きだった」と定は答えている。定の逮捕後、石田の陰茎と睾丸は 東京医科大学 の病理学博物館へ送られた。第二次世界大戦後まもなく、一般に公開していたようだ。.

釈放後、定は「吉井昌子」と名前を変え一般人として生活していたが、終戦直後に乱造された「お定本」と呼ばれる カストリ本 の一つ『昭和好色一代女 お定色ざんげ』をめぐって著者と出版社を名誉毀損で告訴した。告訴したころは埼玉県で サラリーマン の男性と結婚をしていたが(未入籍のため 事実婚 )、男性が自分の妻が阿部定だと知ったことが原因で破局している。さらにその後、この事件をもとにした劇や映画も製作されている(後述)。. ふたたび各地でいろいろな仕事を転々とするようになったが、 年 (昭和46年)に置き手紙を残して失踪し、以後消息不明となった。しかし、 年 ごろまで石田の永代供養をしていた寺へ毎年命日に花が贈られており、これは定によるものではないかと考えられている [ 誰によって?

瀬戸内寂聴 が NHKラジオ の 番組 で語ったところによると、事件後、芝居・見世物一座で本人が講釈し、石田の陰茎の模型を見せることもしていたという。また、 浅香光代 も子供時代に阿部定劇を見たと語っている [6] 。. 事件発生後、阿部定が切断した性器をどう表現するか、各新聞社は頭を悩ませた。「ちんぽ」「おちんちん」などでは品位がないし、「男性器」「生殖器」などでは生々しすぎたからである。またこの事件のメインテーマでもあるため、お茶を濁して誤魔化すわけにはいかなかったのである。苦慮の末、「 局所 」「 下腹部 」という表現が用いられて報道され、これ以後は性器部分をあらわす言葉として定着した。.

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